教育の問題を「動機付け・プログラム・時間」の観点から考えてみた


チンタラ読書日記に戻ろうと思ったけどなんかこんなの読んじゃったのでもう少しだけ。



体罰とかで騒いでる暇ないよこれから学校教育は本当に苦難の5年を迎える - 技術教師ブログ
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20130122/1358872297



教育難しいですよね。教育について誰もが一説ぶちたがるのは、誰もが「教育の経験者」なので、それなりに思うところがあって外から中からアレやコレや言うってのが実態なんだと思います。そんな誰もがの仲間入りをするのはあんまり好ましくないんですが、思った事だけとりあえず文章に残しておこうかなと思います。つまり以下適当にふわっとした事を言ってる、という意味です。アレだゆるふわおちゃらけそんじゃーね的なアレだ。



僕が歴史上一番うまくいったと思われる教育って、「アレクサンドロス大王の家庭教師をアリストテレスが務めた」だと思っているんですね。なんでかというと、僕が考える教育の重要ポイントである「動機付け、プログラム、時間」の3つが上手く噛み合っていたから、というもの。別にこのケースに限らず、この辺りがうまく回ってたら教育はある程度うまい方向に向かって行くのかなと思ってます。


動機付けってのはその名の通り、「ああ、勉強しなきゃ」と思わせるもの。これが無いと何を教えても無駄といえば無駄、学びたい学ばなきゃ的なところが無ければ何も始まりません。
このやり方の一番有効なものは「すごい人が背中を見せる」なんだと思う。あんな人になりたい!そのためにいろいろ頑張らなきゃ!というところがスタート地点。その意味でアリストテレスは当代きっての大学者であり、背中を追いかけるのにこれほどうってつけの人間はいないと思うのです。まぁ別にそうでなくても、母ちゃんの働くところを見て勉強するよと良いながら学校に戻るのも一つの動機付けですし、今はやりの体罰的なものによる強制力、というのもマイナス方向ではありますがある種の動機付けにはなるんでしょうね。モラルの問題はありますよもちろんね。

プログラムってのはそのまま「何を教えるか」の体系のこと。これがきちんと出来てないと、「で、一体何をすればいいの?」となってしまう。アリストテレスの例で言えば、これまた当代きっての(略)であり、教えるにあたって取りこぼし無く、順序だててやれたんではないかと思います。このへんは推測ですけどね。誰か詳しい人居たら教えて下さい。日本で言ったら国語算数理科社会的なものがプログラムにあたりますね。教科書の整備だったり、ちょっとした教え方のTipsだったり、ってのもこの辺に含まれます。

時間というのは、そのまま勉強する時間の事をさします。多分ただ教えたってそれだけで勉強ができたらそれほど楽な話は無い訳で、誰にだって勉強した内容を自分なりに咀嚼して定着させる時間が必要になります。アリストテレスの例で言えば、「家庭教師」というのがポイントで、当時の家庭教師なんてある程度住み込みでずっと勉強見たりするわけですから、本人の勉強するスピードに合わせて教える内容を調整出来ていたわけです。それがつまり「時間」を最も適切につかう事が出来たというわけです。今は世界的に初等教育に5−10年、高等教育にこれまた5年〜みたいな感じで割と長めに取られてますね。



そんで、それが日本の教育の崩壊だなんだってほうに目を向けるとね。元々明治以降の日本の教育システムは富国強兵の為の「工場労働者育成システム」ですから、手っ取り早く健康で言葉が使えて基本的な計算ができて一通りの知識がある人間を大量生産しようとしていたわけです。そんな中でもまぁ「村一番の秀才が大学に出て帰ってきた」人が先生をやり、時に怖い軍人さんがやって来てビシバシやるからちゃんと勉強しなきゃという動機。で先の大量生産システムのための教育プログラムと、十分な時間がセットになって工場労働者を育成していた訳です。


それがアレですよ。工場労働者よりさらに高い教育レベルを必要とするホワイトカラーを大量生産しなきゃならなくなった。そのために何をやったかというと、「時間の延長」です。中学卒で工場に送り込んでいたのを高卒にし、さらに大卒にする。プログラムはある程度出来ているので、時間をかければそれなりに、時間のかかったなりの教育レベルの人間が出来上がる、という考え方。
多分ここがしっくり来てないんでしょうね。高校レベルでも、高1ぐらいでセンター試験で高得点取れる人間ってのは多分結構な数いて、そういう人間でも今は高3まで待たないといけない。一方でホワイトカラー向きでない人間も一定数居てそれも先に別の道に放るべきところを、高等教育のプログラムに乗っけて行って無駄な時間を過ごさせてしまう、みたいなところが出てきます。
こういったホワイトカラーっぽい人間の教育においては、もうすこし時間の概念を個別最適とまではいかなくても、グループ最適みたいなものにしていかないと社会全体ではすごい非効率になっていくんじゃないの???というあたりですね。

時間の次は、プログラム。これはまあありがちな話でさ、世の中いろいろ動いてて、明治時代からの教育プログラムじゃちょっと現実に即さないよね的な部分。今の東大の入試問題と、東京帝国大学の入試問題って、あんまり変わってないんですよね。それはそれで「東京帝国大学の入試問題は人間が勉強するのに、時代を超えて普遍的に必要な部分をとらえた素晴らしいもの」って解釈もあろうけど。
あとはほらコンピュータをよく知らない人間が情報を教えたり英語できない人が英語をおしえたりとかそういうのがね。

動機付けについては、紹介したブログであるとおり。先生への信頼が完全に失墜しております。一方で、体罰的なもの(強制力による動機付け)も、暴力なりモラルなりの問題でどんどん崩壊している。こんな状況でどうやって動機付けんだ???っていう話ですよ。



こんな枠組みで見て行くと、動機・プログラム・時間それぞれの領域で綻びが出ちゃっているなーという状況なんだ、と解釈しております。
例えばさ、以前言及してた早稲田塾竹中平蔵講座。これは大変素晴らしい取り組みだと思っていて、「凄い人が背中で語る」事による動機付けの効果って相当でかいと思うんですよね。これでしっかりやる気になった皆さんが早稲田塾の持ってるプログラムにそって勉強して成果を出すというわけ。(平ちゃん自身に勉強を教えるメソッドはそんなに無いと思うのでそこはうまい仕組みになってるよね)

その点林先生の「いつやるの?今でしょ!」というのは、予備校の先生がプログラムにそって教えつつ、「あっ今やらなきゃ!」と動機付けさせているほうに踏み出していますね。

個別指導とか現代型の家庭教師は「時間の確保」を売ってるとかね。そういうのですね。



話は脱線したけどじゃあどうすんのか。
単純な話まずは親がポイントになるんですよ。「親の方が先生より学歴が高くて先生が尊敬されない」状態なら、まずは親自身が凄い人役になって背中を見せるしか無いんだと思います。そこをぶれさせて先生に責任をガシガシ押し付けると、「俺の方が学歴高い、学歴低いお前もっと頑張れ」みたいないじめの構図に近い物が出来上がる気がしますね。
プログラムも塾だし、時間管理も親になるだろうし、学校はある種1つのコミュニティぐらいの位置づけにしていくんでしょうね。先生は先生というより1年間生徒コミュニティサバイバルプロジェクトのプロジェクトマネージャーぐらいの位置づけですよ。まぁいいやその辺の話をするとまた長くなるので省略。子供でも実際に持ったら悩む事にします。