努力のあり方とは
プロに行ける野球選手とは
僕がいた高校野球部、たまにすごい選手が出る。
割と近い世代で言えば、僕の入学する直前に卒業した先輩、名門大学で活躍しレギュラー、そして4番を任されるまでになった選手がいた。
そんなある日、野球部の監督がぼそっとその先輩の選手を評してこう言った
「いつは素晴らしい野球選手だけどプロにはいけない。才能が無いからだ。」
ガーン、、、あれだけすごい選手なのに、、、なんてことだ、なんてことだ、、、、
等とビックリして思っていたら、監督は*1こう続けた
「プロに行くには才能が必要だけど、あのくらいの選手には、どんな環境でも(注:名門高校の野球部でなくても、的な意味)ちゃんと努力をしたら誰でも大体はなれるものだ」と。
そして、最後に「お前はまだ練習が足らん。練習しろ」とおいう熱い説教で締められた。クソが。
努力ってなんだ
正直当時は「何言ってんだこいつ」ぐらいにしか思ってなかったけど、今にして思えば監督は「努力」というものの意味を正しく理解していたんだな、と思う。
では、努力の本質って何よ?って話
僕なりの努力の解釈は、こうだ。
「努力とは、才能の有無を確かめる行為」だ。
よく引合いにだされる、エジソンの「『99%の努力と1%のひらめきだ』は実は、いくら努力してもひらめきがないとダメだよバーカ」というのも、多分努力の本質を良く言っているなと思っている。
本当の意味で、ある領域で大成するためには、才能が欠かせないんだけど、自分自身に才能があるかどうか、を確かめるには、「才能が成果を左右する」領域まで努力で高めていかないと、わかんないんだよね。
先輩の場合は、その域まで達したので、「才能があるかないか」で判断されるようになった。そして、その域まで達していない僕は「練習しろ」とドヤされた、というわけだ。
才能が無いと判ったら、その努力に費やしたものは無駄になるのか
才能が、あったらいいよね。でも、あるかどうか確かめるにはたくさん努力しなくちゃならない。これって相当残酷な話でもある。
もしも才能がないとわかったら、ガッカリどころの騒ぎじゃないよね。僕もそう思う。
そういうとき、安易に「大丈夫、努力したという経験が残るよ」とか言うんだけど、それはちょっと違うんだよな…と私は思います。
やっぱり「才能が無くて無駄になってしまったものは、ある程度は無駄」なんですよね。
野球選手になれなかった先輩は、今親の会社を継いで薬を売ったりしています。
あれだけ上手だった野球は、彼に1円ももたらすことはありませんでした。*2
いやもちろん才能の開花=金を稼ぐだなんて全く思っていませんけどね。
そういうことですよ。音楽で飯を食うのだって大変だし、Youtubeに面白お弁当動画をアップし続けて飯を食うのだって大変。中々世の中うまくいかないわけです。
ちょっとの努力で飯を食える世界、それが社畜
(このブログは、社畜礼賛ブログの側面もあるのです)
それで、努力が無駄にならないパターンを考えてたら、社畜の世界に行きついたわけです。
実は社畜の世界って「才能が開花しなくてもそこそこ飯が食えちゃったりする」世界なんだな、ってある時気が付いたんですよ。
一定の段取りをつける、人と話して相手をうごかす、きちんとしたモノを作る、それっぽくふるまう、といったある種のお作法を努力で身に着けちゃえば、あら不思議一流社畜の出来上がり。的な。
その努力を正しく行えば、社畜の才能が無くても、野球界におけるその先輩の選手位のポジションに社畜の世界でなれれば、それなりに楽しく生きていくことができます。なんということでしょう!!!!!
というどうしようもない話でした。
でも私は社会人は一定のお作法で出来ていて、それをゴリゴリとマシーンのように推し進めていけばいい、とは本当に思ってますけど、それはまた別の話。