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体育の授業は、始まった時点ですでに勝負がついている

こんなのを見ました。


togetter.com



あとついでにこれも
http://togetter.com/li/828700togetter.com



まぁその、言いたいことはタイトルで言ったので、あとはなんでそうなのかをつらつらと書いてるだけですから興味のある方だけ適当に。

要約

  • 何事も練習すればそこそこ出来るようになる。それこそ学校の科目の高得点ぐらいなら
  • ただ、やり方によっては近道遠回りみたいな事があるのかもしれない
  • なぜなら学校はどうしてもある程度「画一的に」「マニュアル頼り」にならざるを得ない側面があるから
  • そこらへんと種目の親和性がそんなに高くない科目がある。体育は多分それ
  • しかし、うまいこと科目の特性つかんで、傾向と対策知ってれば、なんとかいい方向に連れていける事もある。例えば体育であれば、予習がメッチャ大事みたいな
  • 科目ごとの特性をちゃんと見て行動したらいいよね。っていう大事な気づきが得られてるんなら、呪詛の言葉ではなく正しく適切に次世代になんか伝えてあげればいいんですよ

事前に言い訳を

教育について何かを語るのはあまり好きではないのです。何故ならだれしも皆が何らかの教育を受けて育ってきており、それが故に各人各様の俺ならこうする論を持っているため、議論が錯綜しわりと不毛なところに落ち着いていくことが多いようにみえるからです。


なので、まぁあんまり「教育とは」みたいなところに堕ちていかないようにさらっとした薄く軽い言及に留めたいですね。時間もないですし(最近子供がうまれて赤子の世話に追われてるんですよ)!!


ただ、異論反論オブジェクション定義の認識ミス根本的な立ち位置の間違いなどは多々あるかと思いますので、その辺は優しい言葉で適宜ご指摘ください。


あと冒頭のまとめ及びその反応について、学校が小学校(「体育教師」というものが存在しない)なのか中学校以上なのか判然としない(両者の経験が混ざってるっぽい)けど、とりあえずこのエントリは小学校前提で基本話を進めていこうかなって思ってます。


という前言い訳はさておいて。



私の立ち位置

tororosoba.hatenablog.com

努力をすればなんでも出来る(ただしそれで飯が食えるとは言ってない)
ってエントリを昔書きました。要はそういう事が書いてあるので興味ある人は読んで読まない人はそうなんだ、ぐらいで。


それを学校の中の話に転用すると、「努力をすれば学校での好成績なんて誰でも取れる」になりますね。
ところが好成績なんて中々取れない人が多くて、ましてや体育なんてあんな風に恨みつらみが溜まったりしてるわけなんです。なんでなんでしょうね。


ちょっと話は変わりますけど次は学校の教育プログラムの話。


学校の歴史的背景

私と話をよくしてる人にとってはいつも言ってる事ですが、日本の学校は、明治の富国強兵の時代に工場労働者と兵隊を育成するために作られた組織体なので、規律から建物の構造から何から何まで工場・兵舎にそっくりなんですよね。
というわけで、標準的なカリキュラムを作ってそれにマッチするまでガシガシ鍛え続ける。そういうところがあるわけです。


それは生徒の育成だけでなく、先生の大量生産も出来るようになったシステムなわけですよ。先生、とくに小学校の先生なんてそうだよね。全教科教えなければならない。そうなってくると自身がもっている知識・技能だって限界があるわけで、そんな万能人間をそんなにたくさん抱えられるような余裕もない。そんなわけだから標準的なテキスト、教材とともに標準的な教え方みたいなのががちがちに固められるわけです。その蓄積があるから、パッと何年かトレーニング受けただけの人でも先生でござい、と言えるわけ



体育の家庭教師

ところが各科目に落としてみると、そんな学校のがちがちに組まれたプログラムと相性のいいものと悪いものが出てくる。そりゃあ内容が違うんだから当たり前と言えば当たり前なんだけど。


それが体育だって話。


一つの話として、最近「体育の家庭教師が1時間いくらで走り方を教える」みたいなのが流行ってるという話、聞いたことありますね。今そんなワードで検索すると、山のように業者たちが出てきておいおいどうすりゃいいんだ…って逆に迷うレベルで繁盛しているようです。


一方で、それを笑うような、否定的なコメントもチラホラ…
といいつつ探してたんだけど、あんまりネット上に転がってなくて。概ね好意的なのかどうか知らないけど、、、むしろ体育家庭教師業者のSEOが激しすぎて、業者以外のサイトがほっとんどウェブ上に見つかりませんね。まぁいいや余談すぎでしょ。


「体育家庭教師」って必要ですか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1493931564


こんなふうな感じかな。昔ながらの人は否定する事がおおいのかしらね。



んで、私は、体育の家庭教師はすっごい効率的で有効な仕組みだなって思うんですよ。なぜならそれは体育と言う科目の特性と、体育の授業のスタイルの特性によると思うんです。


特性その①:学校の体育の授業って、「その場でパフォーマンスがめっちゃ見える」んですよね。
走るタイムを計測する、なんて時には、走るの速い人がすぐわかる。誰の目にも。これが算数の授業だと各人がどれだけわかってるかなんてぱっと見えないんだよね。成功失敗のわかりやすさ、とでもいえばいいのかな。


で、例えば純粋に速く走れる人がよりチヤホヤされて上に上がる機会も得られるように出来てるんですよね。リレーの選手に選ばれたり。そうなると良い循環がまわってどんどん成績があがっていく…というようなメカニズム。

特性その②:体育はゴールが多様で実践的
まぁそういうパフォーマンスのわかりやすさってのは、音楽とか書道とかの授業もそうなんですよね。なので体育の特殊さって単純にそれだけでもない。そこでもう一つの特性ってこれかな、って思うのは、体育の場合は絵画とか書道と比べて、「きわめて実践的」というか、「教える」という事がなじまない種類の科目、という事ですね。


走るにしたって、フォームなんて滅茶苦茶でも速い奴は速いし遅い奴は遅い。各人の骨格筋肉の状況とか、そういうケースを見ていかなきゃならない。
そして、走る事自体試行錯誤でしか見につかない側面もあって、プラクティカルに何度も何度も繰り返してようやっと出来るようになる。
この個々人の様子を丁寧に見て、見合ったやり方で何度も練習しないと出来るようにならないものが体育競技なんですよね。。
この辺は知識暗記系の科目と比較したら違いが一発でわかると思います。理科社会は集団講義でも内容をちゃんと理解すれば、授業の前後で学習が進む可能性がありますが、体育は・・・って話。



ましてや集団競技になっていくと、今度は役割なんてものが出てくる。ドッジボールで言えば投げるのが得意な人と逃げるのが得意な人と取るのが得意な人と…みたいな。それだけ多くの人間がいる学校のクラスで、何処目指して何してきゃいいのか適切に教える事なんて、授業の時間内じゃ土台無理ってもんですよ。増してや最初に言った通り、学校の先生だってバックグランド多様で、体育の素人だったりも多く、そんな人にマニュアル渡しただけで、これだけ高度なことを、中々できませんよね。


だから、タイトルで言った通り、体育って、その授業がパフォーマンスを示す「場」にしかなってなくて、その「場」についた時点で既に結果は出ている、ということになりがちですね。なぜならその授業の前と後でパフォーマンスにほっとんど差なんて出ないんですから。


だからこそ、だからこそ最初に出てきた体育の家庭教師。ここできちんと自分の身体特徴を踏まえた体の動かし方を実践しておけば、学校の授業の場ですぐパフォーマンス出来て、良いサイクルに回っていくきっかけとしては、すごい有効だと思うんですよね。


傾向と対策

他の科目と比べてどうなのかな?っていうことで某所で味をしめたので試しに図解してみました。分類と配置は私の主観ですけど、そんなに外れてないんじゃないかな。

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まぁこれだけだとだからなんだ、って話なので、こういう科目の特性を踏まえて、より有効な「教え方」あるいは「学び方」ってのがあるのかな、、、って事を自分なりに考えました。それがこれです。


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どうですか?なんとなく科目ごとの特徴と、有効打っぽくなってきましたかね?
体育家庭教師が有効であることと、似たような対策でうまくいくような科目、あとはそれとは正反対に、本来の学校の教育プログラムにかなった科目なんかも特徴づいて出てくるのかな~なんてね。



まぁこれもあくまで主観オブ主観なので、なんとか皆さんの力を借りてもっと面白くできたらいいとは思いますし、専門家が見たらまた違った話になるかもしれませんね。





最後にこれだけは言わせて

そんなこと言ったって、もうこのブログを読んでる人たちだって良い大人なわけだから、いまさら「体育の授業は始まった時に勝負がついてる」なんて言ったって、「俺達もうとっくの昔に体育の授業なんて終わってるよ」って話でしかないんですよね。



だからね、僕らがやるべきなのは、「より確からしい傾向と対策」を次世代のこれから体育の授業を迎える人たちに伝えていくことなんじゃないかなって思いました。
ましてや、そんな嫌な思いを呪詛のようにまき散らしてたって、世の中何にも良くならんじゃないかね。いろいろ折り合いをつけて、すこしでも社会を住みよくより良いものにしていく、ってのが、方向性はいろいろあれど、大人の役割なのかな~ってね。



最後にこんな言葉で締めたいと思います